㊳ハンガリー(ブダペスト)~深夜の強制送還

 2001/04/01

目を覚ますと、パーティーに行ってた連中はまだまだ夢の中で、私はそっと宿を後にした。

ブダペストの朝は清々しく、夏の朝のようだった。道は広く、日曜日だからか人通りも少なくこの町を独り占めにしたかのような気分になった。建物は古く、街灯もクラシカルなデザイン。明治時代の文豪たちが書いていた欧州とはまさにこんな感じなんだろうなと勝手に想像を膨らませた。世界遺産のマーチャーシュ教会は日本ではまず見たことがない丸い屋根瓦(という表現で合っているのか分からないが)で、黄土色と茶色、モスグリーンという鮮やかな色合いでまるでおもちゃのような可愛らしさと、圧倒する荘厳さを持ち合わせていた。市場では色鮮やかな刺繍が施されたクロスがあまりにも可愛らしくて、女友達や母へのプレゼントはクロスに決定。とにかく見るものすべてがこれまでのヨーロッパと違っていて新鮮だった。わずかな小銭で日本に電話を掛け、母と言葉を交わすと「この三か月、本当に素晴らしい体験をしたのね」母がそう言ってくれただけで私は何もかもが救われたような気がした。帰国して旅ボケなんかしないように、ちゃんと帰国後のことも移動中に考えなくては。そう心に誓った。

20:40、私はプラハ行きの列車を待っていた。この列車は、私を生クリームのような泡の最高の生ビールまで連れて行ってくれるのだ。ああ、どれだけ私はこの日を待ったことだろう。やっとプラハに向かえる。やっとプラハのビールを飲むことができる!

念入りにチケット売り場のスタッフに尋ねる。「プラハに行きたいんだけど予約必要ですか?」「No」。嫌な予感がして別のスタッフに尋ねる。すると「必要ない。てか、予約はできない」とのこと。そして、私が手に持っていたユーレイルパスを指さして「このチケットで十分」とのこと。なんかお互い英語が苦手で、どこまでちゃんと意思疎通ができているのか分からなかったが、さすがに信じることにして、30分も遅れてきた列車にいざ乗車。

ところが!

列車の中にいた車掌から「全席指定だ」と追加料金を請求される。おいおいおいおい!チケット売り場で私は何度も確認したよね。これってもしや旅行者相手の詐欺なのか?こんなおんぼろ列車にいきなり金を払えだと?渋々クレジットカードで支払うというと、カードは使えないという。なんてことだ!財布と持っていたトラベラーズチェックを全て出して「全財産はこれだけだ!」。そう言ってしまうと、もう不満が爆発した。「私はブダペストのチケット売り場で何度も確認した」「私は予約したかったのにできないと言われた」「カウンターの女性に電話して訊ねてみてよ!」「今すぐ!!」そう喚き散らしたら、彼は黙って出て行った。

一人取り残されてからは車窓を楽しむどころか不安でしかなかった。こういう時の勘はほとんど当たるものだ。やがてハンガリー出国スタンプを押すために警察官がやってきた。出国時にやってくるのは珍しいなと思っていたら、今度はスロバキアの警察官がやってきた。なにやらつぶやいて手を出してきたのでさっきの指定席の料金を徴収しに来たのかと思ったら、

「ビザ」

スロバキアビザだって。あー、悪いけど私スロバキアには用がないのよ。ここ通過してチェコに行くだけなんだよね。ここで降りたりしないんで。そう言って、チケット代じゃなかったことにホッとしたのも束の間、

「impossible」

imをかなり強調して言われた。ふ、不可能だと??オーストリアからチェコに行くなら問題ないけど、スロバキアは通過だけでもビザがいるんだ、といって警察手帳をパラパラとめくって赤字で「罰金」らしき言葉とゼロがいくつもついた数字を見せてきた。一瞬で全身の血の気が引いて、足の力は抜け、脳みそが急速冷凍されたように冷たくなった。絞り出すように「国境駅でブダペストに戻れば問題ない?」と訊ねると「No ploblem(問題ない)」そう言うと、力なく握っていた私のパスポートを取り上げて立ち去ってしまった。

(不快でしかなかった薄汚れた車内)

冷静になれ、冷静になれ。
トーマスクックの時刻表をバックパックから取り出し弱々しくページをめくると、国境駅からブダペストに戻る列車はあるのか調べてみた。するとこの列車と入れ違いで最終列車が発車することになっているらしい。ああ、よかった!!
いや待てよ。確かこの列車は30分遅れでやってきたのではないか?再び血の気が引いてきた。国境駅で一夜過ごすなんて冗談じゃない。

列車が止まった。
バタバタと身の回りのものをかき集めてリュックを背負って降りようとすると、ハンガリーとスロバキアの警察官がドア付近でのんきに談笑していた。「ボーダー(国境)?」と訊ねると「No」。なにしてんのよ、急ぎなさいよ。ただでさえ遅延運転してんだからさ。信号停車なのか何なのか、ムダに停車している列車に、今度は脳みそが熱く煮えてくるようだった。
「何分後に発車するのよ」「んーーー、2分後くらい?」
イライライライラ
「あのねえ!私は国境駅でブダペスト行きの列車に乗らなきゃいけないの!!」すると警察官たち「問題ない」。
二分経っても動き出さない列車に怒りをあらわにする私。
「絶対絶対絶対に列車の出発に間に合わせて!!」

やっと列車が動き出すと、遠くに駅の明かりが見えてきた。
「Miss…」とさっきパスポートを取り上げた警察官が私を呼んだ。こいつだ!離すものか!その警察官をぐいと掴まえて、群がっていた警察官の中を分け入り、強引に列車のドアの窓を開け、身を乗り出して駅に列車が止まっているか確認した。

いた!!!!!

パニックになって、言葉にならないほどの奇声を上げながら「あの列車を止めてえええええええー!!!」と掴んだままの警察官の背中をバシバシと叩きながら叫んだ。周りにいた若い警察官は大笑いしていたが、掴まれた警察官は待て待てと繰り返す。そして、窓から駅にいた駅員に向かって大声で「発車させるな」みたいなことを何度も繰り返し叫んでくれた。そして、いつの間にかまるで同士のように二人で外に向かって叫び声をあげていた。

駅に着くと向かいのホームの別の警察官集団に私は引き渡され、無事にブダペスト行きというかブダペスト帰りの列車に乗せられた。さっきまでの列車とは比べ物にならないくらいきれいな車内。やってきた車掌さんは私のユーレイルパスを見て笑顔で「問題なし」と言ってくれた。ああ…。さっきまでの数時間は何だったんだろう。
張り詰めた感情、不安と緊張が一気にほぐれて涙が出そうなくらい安堵し、横たわった私はすぐに眠りに落ち、別れを告げたはずのブダペストに戻ってきてしまった。

ブダペスト駅はさっきまでの喧騒はどこへやら、チケット売り場のシャッターは下り、しんと静まり返っている。そんな深夜にも関わらず宿の勧誘がやってきたが、私はウィーン経由でプラハを目指すことにしたので、2時15分の列車に乗るべくベンチを探した。

こうして嘘であってくれと願った私のエイプリルフールは現実のものとして過ぎ、帰国後のことなんか考える余裕もなく駅のベンチで仮眠を取った。