2025年6月27日金曜日

アイルランド(モハーの断崖)・・・初めての父娘二人旅

 2001/02/05

休みを取ってくれた父と二人で、アイルランド西部にあるモハーの断崖、そしてアラン島にむけてレンタカーで旅行することに。

用意してもらったのはTOYOTA車!左側通行の右ハンドルなので日本と同じなので運転しやすい。しかしどういうわけかウインカーとワイパーは逆。


コンクリートで固めたわけでもなさそうな石垣がいつまでも続く。日本だったら台風が来て一発で壊れそうなものだけどな。荒涼とした風景は私にとっては夢の中のような非現実のものに思えた。

ダブリンから250km。行き当たりばったりの父娘旅行はまず宿探しから。オフシーズンということもあり営業していないところが多く、なかなか見つからない。18時、やっと西海岸の港近くのB&B(Bed&Breakfast)発見。

きれいだし可愛らしいし、貧乏一人旅ではとても泊まれるグレードではない!嬉しい!ひとまずここで一泊。そして、翌朝の朝食はソーセージにベーコン、目玉焼きとパン、そして必ず付いてくるコーンフレーク。しっかり体力付けていざモハーの断崖へ。ところが朝から悪天候。雲の流れが速く、雨が降ったりやんだり。石畳の岸に波が打ち付けては砕け、さらに強風に波が吹き飛ばされて弾ける。

そしてついにやってきましたモハーの断崖(Criffs of Moher)。高さ約200mの崖がなんと8キロにわたって続いていて、のちにハリーポッターの映画の舞台にもなった場所。
とにかく風が強くて飛ばされるんじゃないかと本気で思ったほど。もちろん晴天だったらまた美しかったのだろうけど、なんというかこのド迫力の断崖絶壁にはぴったりな悪天候だったような気もする。荒々しさ、雄大さ、激しさ。なーーーんか、自分の存在や旅する三か月間とかこれからについてとか、めっちゃ小さいこと、大したことないものに思えてきた。あまりに凄すぎて呼吸の仕方を忘れそうになるほどだった。

興奮冷めやらぬ状態で再び父と宿探し。見つけたB&Bはモハーの断崖とは真逆の可愛らしい感じの宿だった。空き部屋あるとのことで部屋に案内されると、すぐにオーナーの女性が温かい紅茶を入れてくれた。

そしてスーパーで買ってきた赤ワインで父と乾杯。二人で寝るまでひたすら飲んで酔って語った。こんなに父と話すことがあったことに驚き。父の周囲の人間からは「よく女の子を一人旅させることに賛成したね!」と驚かれるらしい。思わず「ホント、よく賛成してくれたね」と言うと「いやいや、ノゾミはダメって言っても聞かないやろ。するって決めたら絶対するもんね」って。あ、そゆことですか。笑
この性格、25年近くたった今でも変わらないな。

若かりし頃の父



2025年6月25日水曜日

アイルランド(キラーニー2日目)・・・国立公園であわや遭難


2001/02/03
人生で忘れたくても忘れられない一日となった日。ベルリンでボロ雑巾になったと書いたけど、この日の私は何に例えよう。

朝、ダブリンへ発つフランシスコと一緒に朝食を取り(念のため書きますが、昨夜宿に戻ってから朝食までは当然別室にいました笑)、彼をバスステーションまで見送った。しかしまぁ、スペインなまりの英語は難解だった!Mountain(山)をマウンテンと発音する日本人に対し、ホウンテインと発音するスペイン人。私の言葉もどこまで理解してもらえていたことか。

さて、旅人たちからの情報でキラーニー国立公園を廻るには徒歩では無理で、レンタサイクルあるから借りた方がいいとのこと。出費は痛いが仕方ない。普段、職場までチャリ通勤だったのでホウンテインバイクいやマウンテンバイクにもすぐに慣れた。インフォメーションでもらった国立公園の地図を片手に時計回りで走り出す。天気はあまり良くなかったものの、逆にしっとりとした雰囲気がとても美しく見えた。

こんなに雄大で美しい景色を見たのは初めてのことで、心震えるほどに感動した。そして道がオフロードになるほどに、これまでのチャリ歴が生かされるぜ!と張り切っていた。

阿蘇と九重をまとめたらこんな感じになるのかななんて思いながら、美しい景色を見ながら持ってきたスコーンでランチ。その後ゆるゆると景色を眺めながら運転してたら、雨が降り出した。既に結構な距離を来ていたので、地図を見る限り引き返すよりも先に進んで宿に戻ろうと判断。ざっくりと描かれた地図を頼りに進んでいくと地図には載っていない道が現れ、自分の勘に頼るしかなくなり、信じて突き進むといきなり道にフェンスが掛かっていて進めない。私道とも思えないしフェンスの先には道が続いているのに何故ここにフェンスが? この時の私はまるで何者かに洗脳されたかのように先に進むことしか考えられず(いや、戻れよ)、チャリを担いでフェンスを乗り越え(その時点で疑え)、無理やり進むがその道はやがてけもの道となり、道無き道を突き進むことに。雨はますます激しくなった。そういえば、随分前から家も人もない。そして次に目の前に現れたのは川。いや、沼地と言うべきか。うーん。これってなにかのドッキリかな?さっきまでオフロード楽しんでたどころの話じゃない。しかしね、あのねもうね、引き返す気力もない。またしてもチャリを担いで意を決して沼地に入る。深かったらどうしよう。お母さんごめん。こんな事になってるよ私。完全にコースアウトしてるのを認めざるを得ない。迷ってる。私、道に迷ってる。

ところが!

沼地を渡りきって、チャリを押しながら藪の中をしばらく行くとなんと道路を発見!ラッキー!全ての道はローマに通ず。いやまあ、アイルランドは島国なのでローマには行けないにしても全ての道は宿には通ず。しかし果てしなく続く登り坂に気が遠くなる。元バレー部、体力には自信があるもののあまりにも心細く、心折れそうになる。突然目の前に現れた羊にビックリしつつも仲間意識を覚え、声を掛ける。どこにいくのー?

え!!待って!1人にしないで😭

逃げないで!!!お願い!

また1人になってしまった。車が通ればヒッチハイクをしようと思っていた。しかし全く通らない。世界に1人取り残されてしまったのではないかと思う。当時、猿岩石(有吉弘行のコンビ)がヒッチハイクしたりめちゃくちゃなことを仕掛けるTV番組「電波少年」が流行ってたんだけど、勝手に自分もその世界に入り込んでしまったような気になって、何度も大声で「ギブアップ!」「もう無理!」と叫んだ。スタッフがカメラ持って茂みから出てきてくれたらどれだけ嬉しかっただろう。しかしそんなわけもなくただただチャリを押して雨の中、山道を登るだけ。

ひたすらひたすら、ただひたすら「ギブアップ」と言いながらギブアップできずに無心で山道を登る。何時間も登ったところで小さく「てっぺん」的な英語の看板が立ってて、その先は下り坂になっていた。

うおーーーー!!!!!!!

言葉にならない言葉を叫びながら、下り坂を全速力で漕いで漕いで、雨なのか涙なのか分からないビショビショに濡れた顔でひたすらペダルを踏み続けた。ベートーベンの「苦悩を突きぬけ歓喜にいたれ」の言葉がよぎる。歓喜とはこのことか!!!まるで悟りでも開いたかのように開眼して、日が暮れた後に宿にたどり着く。今思えばすごい形相で宿に入ったのだろうな。

皆が各々夕食準備していた食堂で、私の姿を見た一人が「ノゾミは一体どこに行ってたの?」と聞いてきたので、手に持ってた地図(画像)を見せて大まかなルートを説明したら、全員「Oh!!No!!!」ありえないわ!とざわめく。そして、沼地と思ってたところは湖で、チャリごと船で渡るのが正解だったらしい…。

誰かが「ノゾミのチャレンジと無事に帰還したことに乾杯!」と言ってその場にいる全員が私のために「乾杯!!」とグラスを掲げてくれて、なんというかもう、こんなチャレンジするつもりも無かったんだけどね、なんならこんな経験したくなかったんだけど…と、嬉しいような恥ずかしいような気持ちで私も渡されたグラスを掲げた。

雨に打たれてボロボロの地図は今となっては宝物。そしてこんな雑な地図をよく頼ったものだと若かりし頃の自分に呆れるばかりだ。

2025年6月24日火曜日

アイルランド(キラーニー1日目)・・・フランシスコとの出会い

2001/02/01

父のところに数日滞在し、英気を養って再び1人で出掛けることに。アイルランド北西部にあるキラーニー(Killarney)まで列車を乗り継いで行ってみた。

余談だが、当時の日本(少なくとも福岡)のゴミ出しルールは今より緩く、駅のホームにあるゴミ箱は可燃と不燃の2種類だった。それがドイツの駅でペットボトルやプラスチックなどいくつも分別収集していることに驚いた。それがここアイルランドに来てみたら、可燃不燃が分別されておらず一緒。しかも列車内での喫煙は灰皿がなく床に灰も吸殻も落としていた!ヨーロッパでもこんなに差があるものかとビックリした記憶がある。

(パッと見はキレイなんだけどね)

そんな列車に揺られながら車窓から羊や牛馬を眺め、キラーニーに到着。第一印象が「阿蘇」!これまでの緩やかに広がる田園風景とは違い、緑の山やゴツゴツとした岩山そして岩の間を流れる川が、懐かしい九州の風景を思い出させてくれた。そう、キラーニーは国立公園に指定されている自然豊かな場所だった。

ツーリストインフォメーションで教えてもらった「Neptune」という宿(なんと今でも調べたら存在してた)もすぐに見つかった。1泊1,080円!キッチンは自由に使えるし、街の中心部だし清潔だし言うことなし。

ルームメイトはアメリカはケンタッキー州から来てる学生の女の子2人組。やっぱり女一人旅は珍しいと言われる。ジャパニーズだと言うと尚更驚かれる。夕食を食べようとキッチンに行くと皆それぞれ一緒に来た友人たちと語り合っていた。なんだよー。つるむなよー。つまんないなぁと見回していたら真面目そうなメガネ男子が一人で食事をしていた。「どこから来たの?」と声を掛けるとなんと憧れのスペイン🇪🇸!哲学が好きな彼の名前はフランシスコ。1ヶ月英語の勉強のためにアイルランドに来ていて、お互いカタコト英語で会話するうちなぜか大盛り上がり。明日の朝キラーニーを発つというので、出会った記念に飲みに行こうという事になり二人でパブへ。ぬるいギネスで乾杯して、軽く2杯飲んで帰ってきた。

何気なく声を掛けたこのフランシスコとは、のちに別の土地で2回会うことになるとは、この時は想像もしないのであった。


2025年6月22日日曜日

アイルランド(ダブリン)・・・父との再会

2001/01/27

長距離バスと船移動してる間にアイルランド人のおじいさんと仲良くなった。歯が抜けて時々なんて言ってるのか聞き取れないこともあったけど、とってもチャーミングで楽しくて。ダブリンに到着すると、彼はこれからさらに4時間かけて自分の住む街へ移動するんだとか!すごい!体力オバケ!別れがたい気持ちはおじいさんも一緒だったようで「朝ごはんだけでも一緒に食べないか」と誘ってくれた。まだアイリッシュポンドに両替してないからと言って断ると、おじいさんがご馳走してくれるとの事。生まれて初めて食べるアイリッシュブレックファスト。たっぷりの紅茶にポークビーンズとベーコンと目玉焼き。それに薄切りでカリカリに焼いたトースト。美味しいぃぃぃぃ!おじいさんは孫の世話をするみたいに「紅茶に砂糖は?」「パンもっと食べなさい」「ミルクいるか?バター塗ったか?」と気にかけてくれる。有難いなあ。最後に1枚記念写真を撮らせてもらった。ホント可愛い。

こうして名前も知らない相手とほんの僅かな時間を大切に共に過ごせることが旅の醍醐味だと思った。数時間の出会いが何十年も記憶に残るって本当に素晴らしい経験だと思う。

さて、アテにしていた父ですが、名刺に書いてあった住所を頼って行くも留守。仕方ないので両替所に行き、T/C(旅行小切手)を現金に換えてもらい、コインロッカー探してブラブラ。荷物の重さに心折れそうになり、ダメ元で父に電話を掛けてみたら、出た!!!仕事から帰ったばかりらしくタイミングが合ったみたい。そして、父の声を聞いて旅前半の緊張が一気にほぐれて「ああ、やっとここまで来れた」と膝下から力が抜けていった。オコンネル広場で久しぶりの再会。ああ、お父さーーーん!本当にアイルランドで会えるなんて。二人でパブに行きぬるいギネスで乾杯。この2週間が辛すぎたからか夢のような心地だった。

父は日本では大手の建設関係のコンサル会社に勤務しており、博士号を持つ技術者。しかし50代半ばで脱サラして単身アイルランドに渡り、ニッチな(狭い)分野でISO(国際標準化機構)に関わっていたらしい。退職金もなく貯金を切り崩して単身アイルランドに行かせる母もすごいな。2019年に膵臓癌で亡くなるまで現役でお仕事させてもらえたのもこの時の経験があってこそだと誇りに思う。まあ、ここまで書くと立派な人みたいだけど、常識オンチもはなはだしく、焼酎と日本酒、チューリップとバラの違いもよく分からない人だった。50過ぎて初めての一人暮らしが異国の地ってのも普通なら無理そうだけど、とりあえず生きててよかった。笑

一緒に買い物に行き、当面の食料などを買い込み、しばらくの間の二人暮しがスタート。生涯忘れられない2人の時間となった。

(ダブリン到着直後、オコンネル像前にて)

(父が勤めてたトリニティカレッジの研究室にて)

父の顔を勝手に晒してしまった今日は、父の月命日でした。お父さんゆるしてね。

2025年6月20日金曜日

ベルギー(ブルージュ)からアイルランド(ダブリン)・・・ドーバー海峡でてんやわんや

2001/01/26

6:57ブルージュ発の列車に乗り込んで、翌朝8:00アイルランドの首都ダブリンに到着するまでの約25時間の記録となります。

早朝。ルームメイト達が寝静まっている中、そっと身支度を整えて部屋を出ようとした時に、昨夜一緒に飲んだペルー人マリアが静かに挨拶してくれた。数時間前に会ったばかりだけど、わざわざ起きて旅立つ私にそっと声をかけてくれたことが本当に嬉しくて、一期一会とはこのことだなと思った。彼女の旅も素晴らしいものでありますように。

街全体がまだ寝ているかのように静かで、この地をこの時間に離れることが惜しい気すらする。さよならブルージュ。港町オーステンドまでゆっくり車窓を楽しむ。

そう。私は今からこの大陸からドーバー海峡を渡ってイギリスに行き、そこからさらに北上してさらにさらに海を渡ってアイルランドを目指すのだ。港町オーステンドに着くと、町の静けさとは一変してドーバー海峡渡る船のチケットを購入する人達でごった返していた。私もその列に並び、イギリス行きの片道チケットを購入する。

購入後、船乗り場まで来てふとチケット売り場に往復割引の金額が書いてあったのを思い出した。往復だと安かったな。いや、だとしても片道チケット高すぎんか???ユーレイルパス持っていたら割引になるという情報もあった。考えれば考えるほど解せない。こちらは貧乏旅行で10円だって深刻に考える身だ。たまたま隣にいた黒人のおじさんにチケット代について尋ねた。「確かに高いね」という言葉がまるでロケットの発射スイッチのように、私はチケット売り場へ全速力で戻って訊ねた。しかし、私の英語力ではなかなかうまく説明できず、売り場のおばさんにキレられた。再び全速力で黒人のおじさんのところに戻り、おじさんに「あなたは私の言いたいこと理解できるよね??ね?説明してよ!」と無茶振りしたら一緒に売り場に戻ってくれて再交渉。しかしまあ、これが間違いではなく通常の価格だという。筆談でやり取りしてもらったけどチケット売り場のおばさんの筆圧で察していただきたい。「いい加減にして!」と2人揃ってガチギレされた。涙

完全に負け犬状態で船に乗り込む。おじさんごめん。おじさんはガーナ人で名前はソロモン。「日本にはガーナチョコってのがあるんだよ」って伝えたら「ホントに!?」って喜んで意気投合。ソロモンはベルギー人の奥さんの実家に行ってたらしく、これからロンドンでパソコンを買うんだって。短時間の船旅の相手が優しい人でよかった。海を渡り、うっすらとイギリスが見えてきた。なんか感動!さっきまでのイヤなこと、ドーバーの白い崖見たら全部忘れてめっちゃテンション上がった!ソロモンに「本当に"white cliff"は白いんだね!」と言ったらいろいろ教えてくれた。ん?チョーク?チョークってなんだ?ああ!ソロモン、確かに学校で白い崖は石灰岩って習った気がするよ。白い崖はチョークでできてるってことなんだね。このドーバー海峡で16世紀に海戦があったのかと思うと、今乗っている船がまるでスペインの無敵艦隊のようにすら思えてきたよ!こうして海からイギリスという国を見た兵士たちは何を思ったんだろうね!……なーんて聞き上手のソロモン相手に興奮していたら、すっかり両替するのを忘れてイギリスに到着してしまった。ああああ、このドーバー駅からロンドンまで移動するお金が無い!!両替する場所もない!!

ソ…ソロモン…。しどろもどろ事情を説明したらにこやかに切符を買ってくれた。「ロンドンのヴィクトリア駅に着いたら必ず切符代を返します」と伝えたら「気にするな。ノゾミが両替を済ませて、アイルランド行きのバスのチケットを買って、バスを待つだけの状態になったら僕は行く。それまではきちんと見守るから」と。いやいや!そこまでさせるつもりはない。するとソロモンは続けてこう言った。

「僕がかつてナミビアを旅した時にお金が足りず困っていた時、隣にいた人が助けてくれたんだ。旅人を助けることは特別なことではない。僕がいなくてもきっと誰かが君を助ける。」

「やっとナミビアで受け取ったバトンを誰かに渡すことができた。ノゾミも困ってる人がいたら親切のバトンを繋いであげてほしい。」

もう泣くのをこらえるのに必死。何度だってバトンを渡そう。約束します。結局、ソロモンは本当に私がバスに乗る準備が整い、バーガーキングでお腹を満たすまで傍にいてくれた。そして自分が食べ終わると笑顔で「良い旅を」と言ってさっと店を出て行ってしまった。ソロモンが目の前からいなくなって急にポテトが冷えてしまった気がした。

(こちらがソロモン。帰国後、彼から宗教勧誘のメールがめっちゃ来てた。笑)

そしていざ、ロンドンはヴィクトリア駅近くにあるバスセンター(コーチステーション)から高速バスに乗り込んだ。かくかくしかじか24年後の今年2025年、まさか娘と一緒にこの場所に来て、留学する娘が乗るバスを見送ることになるとは夢にも思わなかった。この話はインスタには書いたが、ここではまたいつか。
バス車内の狭さに驚き、トイレもついてない空間で9時間だと…。若さでどうにか乗り切ったが、今の私じゃ絶対無理だろうな。途中リヴァプールでフェリーに乗ってアイルランドへ渡り、翌朝8時、さすがにヘトヘトに疲れた状態でアイルランド上陸した。

実は、アイルランドには脱サラした父謙二がいるのである。連絡取れてないけど、久しぶりの父娘再会できるのだろうか。果たしてどこに行けばいいのだろうか。

2025年6月18日水曜日

ベルギー(ブリュッセル、ブルージュ)・・・ひたすら街歩き

2001/01/24  24,000歩

この宿は朝食付きだと高くなるので素泊まりにし、好きなものを買ってきて食べることにしたけど何を食べても美味しい!そして日帰りでベルギーの首都ブリュッセルに行ってみることに。小便小僧ことマヌカンピスは想像以上に小さくって可愛らしい!コペンハーゲンの人魚姫と比較してしまうけど、みんなに可愛がられて愛されているのを感じる(いや、人魚姫もそうかもしれないけどね)。

グランプラスという中央広場は荘厳な雰囲気で思わず息を飲んだ。す、素晴らしすぎる。たまたま近くにいた人が言うには、この市庁舎の建物はよく見ると左右非対称なのだとか。左右対称にしたつもりがズレていたことに完成してから気がついたらしく、設計者はあまりのショックと恥ずかしさで塔から飛び降りて自殺してしまったらしい。設計者さん、あなたのミスのおかげで、多くの人がこの建物を長い時間見つめることができていると伝えたい。(その市庁舎がこちら↓  当時のデジカメは全体を撮ることができずこれが精一杯)

そしてひたすら街歩き。ベルギーワッフルは想像以上に美味しかったし、野菜たっぷりのサンドイッチを頬張りながら古い町並みを見て回るのは最高の時間だった。チョコレートショップが多いのもベルギーならではだなと。(高級感ハンパなくてとても入れる雰囲気ではない)

そして早めにブルージュに戻ってきて、飽きもせず街散策。もうどこを切り取っても絵になる風景ばかりで、今自分がここにいることが信じられない思いだった。街並みのせいか、天気のせいか、足の痛みも和らいできたし、心もちょっとずつ落ち着いてきた気がする。そして気持ちに余裕ができたからなのか、それとも土地柄なのか、美味しいものに心のアンテナが反応するようになってきた。水ひとつとっても当時の日本でなかなか手に入らなかったコントレックスや炭酸水が並んでいることにテンションが上がった。(お水やお酒が美味しくてめっちゃノートに記録してた)  宿の1階にあるバーに行くと、なんとスピリッツやカクテルを一切置いてないビールOnlyのバーだった。そんなバー、需要ある!?なんて余計な心配をしたのも束の間。ベルギーはビール大国で、数え切れないほどの種類の地ビールが揃っていて、驚くことにそれぞれのビールに専用のグラスまで用意されていたのだ。それならばとオススメをオーダーするとWestmalle(ウエストマール)が出てきた。黒ビールに近い色をしてて泡はギネスのようにキメ細かい。でも飲んでみると黒ビールほど焦げたような味ではなく飲みやすい。軽い甘さとフルーティな風味があって、ゆっくり味わうビールのようだ。周りを見ても、日本のようにゴクゴクとのど越しを楽しむ感じではなく、みんなちびちびとビールを飲んでいた。

オーストラリアからやって来たルームメイトのコニーとペニーからは今更ながらの英語をいろいろと教えてもらった!

こうして心穏やかに翌日もブルージュでの時間を堪能した。アーモンドクリームの入ったデニッシュパンや冷凍コロッケ、ミルクパン、ポークビーンズ、チーズそしてビール!ビール!ビール!仕事もせず美しい公園で鳥のさえずりを聴く時間がなんとも非日常で素晴らしいのだけど、やはり心のどこかに穴が空いてる気がするのは1人だからだろうか。それとも帰国した後の生活が気がかりだからだろうか。最近は日本で仕事を頑張っている夢ばかりを見てしまう。目が覚めるとそこはベルギーのベッドで、どっちが現実でどっちが夢なのか分からなくなる。ただひとつ言えるのは、仕事してるのが夢だと気がついた時、私はとても残念な気持ちになっているのだ。


2025年6月17日火曜日

オランダ(アムステルダム)からベルギー(ブルージュ)へ・・・東洋人はみなチャイナ?

 2001/01/23 18,000歩

移動ばかりが目的の旅なのはいかがなものか、なんて数日前にコペンハーゲンで考えたばっかりだったけど、お酒とドラッグでテンション高いルームメイトたちの騒ぎ声にうんざりしたのもあって、アムステルダムは一泊だけにして、今日はベルギー北西部にあるブルージュという街に行ってみようと決めた。

(アムステルダムにある跳ね橋)

朝食前にザックに荷物を詰め込み、出発の準備を済ませてから食堂へ。二種類の食パンに、甘くないラスク、ジャム数種、ハムとチーズ、コーンフレークと甘くも酸っぱくもないヨーグルト、オレンジジュースとコーヒー、紅茶。貧乏旅行には夢のような朝食。もちろんキッチンもあって自分で食事を作ることも可能。黙々と食べていると目の前に山のように食パンを積んだ人が座った。アマノだった。「朝食要らないから昼ご飯を作る」と言って、堂々と朝食用のパンにハムやチーズと挟んでサンドイッチを作っていた。ナイスアイデア!私も一緒に昼食用のサンドイッチを作った。アマノは一年の半分はインドで過ごしているが、時々お金を稼ぐために漁に出るとか。今回もそのためにこれからノルウェーに向かうらしい。シャワー室で大声で歌うアマノの声を聴きながらホステルを後にし、一度は行ってみたかったアンネフランクの家へ。アンネが<強制連行されるユダヤ人を見て、自分が密告者のような気分だった>というのを想像しながら窓から通りを眺めた。この場所で息をひそめて生活していたことがリアルに伝わってきた。
(アンネ・フランクの家)

特に何の未練もなくアムステルダムからベルギーはブリュッセル行きの列車に乗り込んだ。二人ずつ向かい合わせの4人掛けの二等席。国境超えるのもパスポートいるのかなあ?くらいにのんびり構えていたら、案の定、国境駅で停車。乗り込んできた警察官が一人一人のパスポートを入念にチェックし始めた。おお、こんなの初めて。私はあっさり確認終了。同じ席に座っていた中国人男性二人のパスポートを見て、警察官が眉をひそめた。おいおいおい。どうやら一人は入国のスタンプがないらしく、なんともう一人はパスポートすら持たない。おいおいおい。しかも全く英語が通じないらしくらちが明かない。周りも何事かとざわざわし始めた。とそこで気が付いたのだが、みんなの目線が完全に私を含む「三人の東洋人」がトラブルの原因として見られている!おいおいおい!ちょっと待ってよ。警察官もどうにか意思疎通を図りたいらしく私の方を見て「お前こいつらに聞いてくれよ」と言ってきた。えーーーーマジか。仕方なく警察官の言ってることを漢字で書いてはみたものの、中国人の言ってる言葉がさっぱり分からず、結局二人とも強制連行されてしまった。残った私を見て「女は違うのか?」と周囲の声。ちょっと勘弁してよ。しかしまぁ、仲間に見えなくもない服装だったかもしれない。

ブリュッセルに到着後、すぐにブルージュ行きに乗り換える。中世の街並みというワードが記憶にあったんだけどまさにそう!どことなくリューベックに似ているけどもっと町全体が広く大きく、霧がかかった町並みはおとぎ話に出てきそうな美しさだった。ツーリストインフォメーションではすぐに安宿をいくつか教えてもらえた。なんとどこも安くて一泊1000円前後のところばかり。私が選んだのはなんと一泊約870円程度の宿。一階がバーになってて、二階が宿。6人男女混合部屋でオーストラリアからの女子二人いたのでひとまず安心。キッチンは自由に使えるので、スーパーマーケットで数日分の食材とお酒を買い込んできた。

しかしねえ、シャワー室が男女兼用で、ドアがなくまるで海の家のようなカーテン一枚。時々カーテンが人にあたって揺れたりするのでその都度中を覗かれているのではないかとヒヤヒヤ。3か月の旅の中でこの宿が一番安く、一番不用心だった。

ちなみに25年後の現在、ストリートビューで調べたらこんな感じ。手前から2軒目の建物だけど、ネットの情報では今はこの場所では営業してないようだ。

2025年6月16日月曜日

初夜行でオランダ(アムステルダム)へ・・・アムスはドラッグの町?

2001/01/21   25,000歩

本日の予定。 コペンハーゲンを出て、再び渡り鳥コース(列車ごとフェリーに乗る。今は廃線となったルート)でドイツに渡りハンブルグで乗り換え。3時間ほどハンブルグ観光した後にベルリンに向かい、アムステルダム行きの夜行列車に乗るという計画。頭の中はフランダースの犬とチューリップのお花畑状態。やっと私の旅にも春がやってくる🌷

(画像は列車の予約チケット)

このスマホのない時代。有力な情報は宿での旅人からの聞き込みが一番。モジモジしてたら何の情報も得られないので、言葉が苦手でも必要に迫られてなんとかやり取り。デンマーク最後の夜もしかり。そこでアムステルダムについての情報収集してたら、アムステルダムに行ったというシアトルから来たバックパッカーの女子が「アムスに行くの!?クレイジーだわ!」と言い出した。ええっ!?そして彼女は右手を口元に当ててクスリを吸う真似をした。なんとなくドラッグが合法であることは知っていたけど「クスリがしたくて行くの?ヤバいよ。カフェにはクスリのメニューまで載ってんだから」と言われると、根が真面目な私はすっかりビビってしまい、脳内からはフランダースの犬もチューリップも静かに消え去り、私の周りに売人が集まってくるイメージしか持てなくなってしまった。うううーーーん……

いや、アムステルダムにいる人全員がクスリ漬けで廃人になってるわけないやろ。しかし、「ヤバいよ!」も忘れられず。旅の目標のひとつであったはずの渡り鳥コースもなんの思い入れもない(ごめん)コペンハーゲンを去るということもあり、ぼんやりとしたまま過ぎて行ってしまった。かろうじて残していたドイツマルクをフェリー内から日本への電話代にあてた。次に電話する時はドラッグ漬けでろれつが回らなくなってるんじゃないかと勝手に心配しながら。ああ、今思えばあの時多少ハメを外していればネタにも困らなかったろうにと思わなくもないが、なにしろ旅は始まったばかりでまだまだ警戒心のカタマリだった私はアムステルダムに異常なまでに不安を感じていた。

アムステルダムに着くと雪だった。しまった。まだどこに泊まるのか決めてなかった。アムステルダムに前向きになれない私は、駅を出たり入ったり、その後は別の都市に向かう列車に乗ったり降りたりをバカみたいに繰り返して、古都デルフト行きに乗り込んだ。ベルリンのように宿探しで難儀するのではないかという不安も、列車に乗ってしまうと「なんとかなるはず」と前向きになれた。ところが、駅を降りて胸膨らませてツーリストインフォメーションに行くと「そんな安宿はない」とバッサリ。デルフトのホテル代は何食か食事を抜いたくらいで払える金額でもなく、途方に暮れる。居合わせたアメリカ人夫婦も何とか力になろうと職員に掛け合ってくれたが「NO」がやけにハッキリ聞こえてくる。申し訳なさそうにこちらを見る。もし私が英語を流暢に話せてこの夫婦に、足が痛くてお腹が空いて寒くて寒くて一分一秒でも早く1ギルダーでも安い宿を探したいって言えたら、言い終わる前に泣いてしまっていただろう。目を合わすのもやっとの状態で、ありがとうとだけ伝えて走って逃げるように駅に向かった。

あああ、急いでアムステルダムに戻って宿を探さねば。自分の中で今回の旅の宿は、いかに旅人と交流できて、いかにその土地ならではの個性があって、いかに安いかが決め手なんだけど、この際多少個性がなくて高くてもいいからユースホステル利用することにした。ハローアゲインアムステルダム。歩くのも限界なくらいの足の痛みだったので、本来歩ける距離だったけど路面電車を使うことにした。

ユースホステル最高。男女混合部屋で飲酒禁止だけどとにかく清潔感あって、ベッドも互い違いになって配置されてることである程度のプライベート空間が保てる。一部屋ごとに大きなトイレとシャワールーム完備で朝食込みで1500円程度。なーんだ、最初からここに決めとけばよかった。

やっと宿が決まったことで猛烈にお腹が空いてきた。こうなりゃ自分にご褒美だ!カマンベールとトマトがたっぷりの大きなサンドイッチと、自販機で売られていたカレー風味のコロッケ(激ウマ)と青森県民も驚くであろう甘くてみずみずしい青リンゴ🍏

歩けば歩くほど面白い街だった。ビールやタバコ、チーズ等など専門店が連なり独特の活気も気分を上げてくれた。ネットカフェ(サイバーカフェと呼んでた)に入ると店員からいきなり「ドリンクは?」と聞かれたのだが、あまりに警戒しすぎてて「ドラッグは?」に聞こえて毅然として「NO!」の一点張り。しばらくしてドリンクのワンオーダー制だと気が付いて赤面。PCは日本語使えなかったし、早々に退散。あーやだやだ。

飲酒禁止だけどこっそりユースホステルにビールを数本持ち込んで枕の下に忍ばせる。飲み始めた頃にアマノという黒人男性が入ってきて、インド音楽について2時間も話に付き合わされた。

フランダースの犬降臨。パトラッシュ…僕は疲れたんだ。なんだかとても眠いんだ…   



2025年6月15日日曜日

デンマーク最終日・・・コペンハーゲンと馴染めず

 2001/01/20

星野のおじさんに挨拶だけしようと誰よりも早くレストランに来た。おそらく話をするのはこれで最後だと思うから。

パン3種、フルーツ、シリアル、ハム、チーズ…

残金300円程度なので朝食はもう無理ってくらい食い溜めした。そして、星野のおじさんにも挨拶できた。この先、アイルランドとロンドンには行きたいって話したら、バスとフェリー乗り継ぎの情報を提供してくれた。さすが年の功。たまには役に立つな!笑

軽いノリなのが寂しさを感じさせなくて有難かった。星野のおじさんはあれからどれくらいして日本に帰ったのだろう。今となっては知る由もない。


さて、昨日寝る前に思いついたコペンハーゲンからデンマーク横断して西の端に位置する街に行ってみようという計画。目的地であるEsbjergへ。エスビアウと読むらしい。持っている鉄道乗り放題のユーレイルパスは一等席(ファーストクラス)も乗れちゃうんだけど、さすがに所持金300円程度で、いかにも貧乏旅な服装をしている私は気が引けてしまって2等席へ。今考えるとよく所持金それっぽっちで300Km近く離れた町まで(しかも何の前情報も無し)行ってみようと思ったなあ。それはそうと2等席はすでに予約客でいっぱいで、予約なんて必要ないと思っていた私は目をギラギラさせて席が空くのを待ち構えて、途中から運よく空席を見つけたのでなんとか座ることができた。(欧州鉄道の時刻表=トーマスクックには、その列車が予約いるかどうか記号で記されているのだが、今回の列車は不要になっていた。しかし実際にはほとんどの人が予約してたりする場合もあり、こればかりは乗ってみないと分からない)

エスビアウに着くとすぐに夕方コペンハーゲンに戻るための(バックパック持ち歩いて宿探しが大変なのと、次の都市に移動することを考えると宿泊はエスビアウではなくコペンハーゲンのままにしておくのが賢明と判断)列車の予約をした。もう無駄な気遣いはやめて、一等席を予約。なんとコーヒーまで付いているらしい。帰りの席を確保できたので短時間ではあるけれど安心して町散策に出掛けた。港町エスビアウは大都市とはまた全然違った雰囲気で、特にレンガ造りの住宅街が美しかった。繁華街も歩行者天国になっていて、静かで非常に歩きやすかった。私はこういう目的のない街歩きが一番好き。その地の住民がどんな家に住んで、どんな店でどんなものを買い、どんな日常を送っているのか想像することが非常に楽しい。なので必ずスーパーや市場に行って、よくわからない食べ物を買ったりする。記録に残すほどのこともない、しかし非常に楽しい街歩きをしたのはいいが、スマホのない時代&この街の地図がなかったこともあり、うっかり道に迷ってしまった。そんな時通りかかったお兄さんが、駅までの近道を教えてくれた。「Tak! Tak!(ありがとう)」こういう小さな交流あるのも嬉しい楽しい。

駅について堂々と一等席に乗り込む。やはーーり、一等席は快適。大きくてゆったりとしたソファのような座り心地の椅子。席の近くにはドリンクコーナーがあって保温ポットにコーヒーと、紅茶のティーバッグ用の白湯が用意されていた。そしてそして、チョコ付きドーナッツまで!空腹だったので涙が出るほど嬉しかった。ユーレイルパス最高。車窓を眺めるのも大好きで、飽きもせず外を眺めていた。どこまでも続くゆるやかな大地。風がないからか、木々には粉糖を振りかけたように白い雪が美しく付いていた。

夜、いつもの宿に到着すると部屋には日本人の女の子が!彼女ヒロコちゃんは5週間のユーレイルでの一人旅の最中だそうで、私がこれから向かおうとしているポルトガルやスペインからこっちに来たらしい。ビールで乾杯し、何か食べたいねと言って二人で財布の中身を出しあったところ120円程度しかない。お酒を買えるのが20時迄だったらしく、おとなしく2個入りのデニッシュパンを買って仲良く食べた。

翌朝早く彼女は次の土地へ旅立って行った。ほんの数時間だったけれど「会えてよかったね」と言い合える人に出会えてよかった。しかしヒロコちゃんもだけど、これまで会った旅人のうち何人かは都市ごとに一泊または半日滞在で移動するというスタイルだった。5センチくらいの分厚いガイドブックをバイブルのように抱え、そこに載っている場所を訪れ、ガイドブックに載っている場所に立って写真撮って帰るだけ。ひょっとしてその土地の風景よりガイドブック眺めてる方が長いんじゃないかと思えるくらい。旅はガイドブックありきなのかな。また、「移動が目的」のようにも見えた。ユーレイルパスが乗り放題だからだから、ユーレイル使わなくちゃ損だと思うのだろう。まあ、数年単位で旅をしている人から見たらガイドブックは持ってないだけで、私もヒロコちゃんと同類に見えるのだろうけど。

さあ、私は三か月で何を得ることができる?どんな旅ができるのだろうか。

2025年6月14日土曜日

デンマーク2日目・・・テンションダダ下がりな一日

2001/01/19

初日のユースホステル以来の朝食付き(といってもパンや卵が置いてあるだけ)なのでレストランに行ってみると、星野のおじさんがすでにテンション高く若者たちと喋ってた。なんだあのパワーは。

今日は人魚姫の像を見に行くことだけは決めていた。気持ちを切り替えようと街を歩いてみたが、やはりあの楽しかった時間が恋しく、寂しさに押しつぶされそうになる。完全にリューベックロス。一人公園のベンチに座って凍った池に向かって石を投げる。氷が割れるまで投げ続けようとしたが、馬鹿みたいに思えてきてやめた。

人魚姫の像は、会った旅人たちからは「期待はずれ」と不評だったけれど私は全くそう思わなかった。寂しげな様子がまた自分の心境にもリンクしてしまいしばらく見入ってしまった。さんざん見世物にされた挙句期待はずれと言われるくらいなら、いっそのこと遠く静かな海に連れて行ってあげたい気持ちにすらなった。

雪混じりの雨が降り始め、いよいよ気持ちが落ちていく。わずかな小銭しかない私は、このお金を日本への電話代に使うかパソコンに使うかをさんざん悩んだ。リューベックでジムが日本語読めるパソコンに案内してくれたんだから、一国の首都であるコペンハーゲンのパソコンなら間違いなく使えるはず!という勝手な思い込みでパソコンの方を選択するも、日本語全く対応しておらず撃沈。あー、公衆電話なら日本と5分以上は話せたんじゃなかろうか…。(海外からメールも電話も自分の携帯電話で自由にできる今ってホントすごい)

昨日買ったパンを昼ごはんとしてかじり、部屋に戻ってゴロゴロする。モヤモヤして睡魔もどっかに行ってしまい、言葉の分からないテレビをぼんやりと眺めていた。

星野のおじさんは今夜パリ行きの深夜バスに乗るらしいけど、姿が見えないのでもしかしたらもう出掛けたのかもしれないな。もしくは暇さえあれば「地球の歩き方」(旅人のバイブルともいわれた旅行本)に投書(旅人からのリアルな情報をハガキに書いて送って、採用されたら本に掲載される)してるらしいので、どっかのベンチでせっせとハガキ書いてるのかもしれない。私は夜ご飯買うつもりが、デンマークのビール、カールスバーグとポーターを手に取りビール税込みで170円ほど支払って再びホテルに戻ってきた。なるべく出費を減らさなくては。お腹空く前に寝よう。

そう思ったところに星野のおじさんが現れた。「バスの予約チケット取れてなくてさあ!明日移動することにした」とのこと。旅慣れしてるみたいなのにこんな凡ミスするんだ。やれやれ。なんか話したそうなので、しばらく付き合ってあげよう。星野のおじさんからビールを1本もらってしばらくの間、これまでの旅についてこれからの旅について語り合った。なんだかんだ気が紛れた。そういや出発した頃には、次に日本語話すのいつだろうなんて考えてたけど、割と早かったな。

ダメだ。

コペンハーゲンにいてはダメだ。何も変わりそうにない。アンデルセンの故郷オーデンセに行こうか。いや、アンデルセンに特別興味がある訳ではないしな。全く違う風景が見たい。今私は、デンマークの東端のコペンハーゲンにいるから、まっすぐ西に向かって行くのはどうだろう。デンマークの西海岸から北海を眺めるのもいいな。ということで、地図を見てまっすぐ西側にあるなんて読むのかも分からないEarbjergという街に行くことを決めた。

やっと何かから抜け出せそうな気がしてきた。

2025年6月13日金曜日

デンマーク初日・・・渡り鳥に乗って新しい街へ

2001/01/18

早朝、まだ静かなうちに出発準備。ジムにきちんと御礼を言えてないのが心残りで、迷惑を承知でジムの部屋をノックすると、寝ぼけまなこのジムが顔を出した。まだ夢の中にいるような表情だったけどそれでいいんだ。感謝の気持ちを一方的に伝え、そして宿‘RuckSack’をあとにした。

寂しい気持ちは心の奥に押し込んで、乗るべき列車のことだけを考えた。列車の予約をしてなかったらリューベックを離れられなかったかもしれない。さあさあ、予約したのは旅の目的の一つでもある「渡り鳥コース」!これはドイツからデンマークはコペンハーゲンに向かう途中の海を、列車ごとフェリーに乗って運ばれるというルート。

(残念なことに2019年にこの渡り鳥コースは廃止されたそう。人気のルートだったのに)

国境超えるのに初めてパスポートチェックされた。海が見える。朝日がものすごいパワーで光を放っている。また違う国に入るんだという期待で胸がいっぱいになった。車内放送でどうやらフェリーに乗るぞ、カフェやスナックもあるぞ、45分くらいで着くぞみたいなことを言ってた気がする。ドイツマルクは使えるのかな。そんなこと聞く相手がいるわけもなく、ああ一人ぼっちだったんだと気付かされる。
国境駅プットガルデン。あっという間に列車はフェリーの中に吸い込まれるように入っていった。みんな列車から降りてフェリーに移動し免税店やカフェで自由に時間を過ごしている中、私は甲板から離れていく大陸を見ていた。福岡を出てちょうど一週間。いろんなことを思い出して胸がギュッと苦しくなる。渡り鳥コースとよく言ったもので、私の目の前にも今まさに渡り鳥が飛んでいた。この飛んでいる鳥と私は同じように自由なんだろうか。自由だとしてその先に何があるんだろうか。楽しいはずの気持ちがなぜか重く憂鬱で、涙がこみあげてくる。自分の感情がうまく整理できないままに陸地が見えてきた。



そんな感じでぼんやりしてたら列車に戻るのを忘れてた!船旅じゃない。列車の旅をしてたんだ!焦りすぎてフェリーの甲板から列車に戻る階段を見失い、船内の駐車場を走り回ってようやく列車を見つけて飛び乗る。まったくフェリーに取り残されたらどうなっちゃうんだろう。なんて、そんなこと話す相手もいないんだった。



コペンハーゲン到着。とりあえずインフォメーション探して安宿情報を入手することに。紹介された宿に行ってみると、びっくりするくらいきれいなホテル!これで一泊約1,300円程度だとは驚く。なんか幸先いいぞ。一気に気分が上がったのも束の間。きらびやかなロビーを通過して案内されたのは、薄暗い地下の10人ほどのドミトリー。部屋はまだマシだったけど、ロッカールームはセキュリティなんてなさそうな状態で、なんといってもシャワー室が部屋から果てしなく遠くしかもろくに使い物にならない。イメージだけど船の貨物室ってこんな感じかな。タイタニックでジャックが乗ってた三等客室の方がはるかにいいだろう(腐ってもタイタニックか)
あーー、天国から地獄。一瞬喜んだだけに気分の落ち込みはひどかった。
リューベックが恋しい。寂しい。帰りたい。
地図がすぐ頭に入るのは特技なんだけど、どういうわけかコペンハーゲンは入ってこず、街の印象も掴めないまま。寒いし足痛いしで殺風景な部屋に閉じこもる。

そういえば沢木耕太郎も、香港の印象が強烈で、次に訪れるどの土地もその輝きに優ることなく、全て香港と比較したと書いていたような。そこで沢木が気づいたのが、土地が違えば性格も違って当然。それを認めていかないといけないってことだった。
そうだ。明日こそはこの土地の良さがあると信じて、今日と違う気持ちで歩いてみよう。

シャワー浴びて寝る前、ビリヤード場で日記をつけていたら目を合わせちゃいけない怪しげな東洋人が話しかけてきた。彼の名は星野。このおっちゃんがほんと怪しい😱
しかし悲しいことにあまりにも気が合ってしまい、めちゃくちゃ盛り上がってしまった。明日は宿を変える!と思っていたけど考え直してみようかな。だって、もうここはリューベックじゃない。





2025年6月12日木曜日

ドイツ(リューベック)最終日・・・Bill's Bandと楽しい夜

2001/01/17

ちょっと、リューベック2日目のブログを読んだそこのあなた。私から「しがないミュージシャンのくせに」と書かれた3人組(正確に言えばミュージシャン2人と運転手。あと他に2人いるメンバーは別の宿らしい)は、Bill's Bandといってこの時ヨーロッパツアー中だったんですって。ジムはニューヨークのブロードウェイに住んでて、乗ってる車はキャデラックなんですって。ええーっ!安宿に泊まるぅ??

「売れないミュージシャンの地方営業ライブは大変だろう」なんて勝手に思い込んでた私は、宿の皆からその事を聞いて椅子から転げ落ちそうなくらい驚いてしまい、笑われた。バカにするなと言わんばかりにジムが近所のCDショップに並んでたBill'S BandのCDをわざわざ買ってきて、メンバーがサインまで書いてくれた。

ちなみに1番左がジム。想像と違うと思ったアナタ、人は見た目じゃないんですよ。

(25年後も価値が上がると信じて大切に保管してる↓)



ところが、いや、ちなみに、いや、まさかの!なんと!思いのほか!信じられないことに!2025年現在AppleMusic、Spotify、AmazonMusicでも姿を発見😳びっくり。



そのジムが、翌朝えらい不機嫌だった。二日酔いか何かかと思って心配して尋ねてみると、昨夜みんなで飲んでる時に「俺の部屋で2人で飲み直そうぜ」的なことを私に言ったらしく「おーけーおーけー」と答えた私を一晩中待っていたらしい。ま…マジか!それはビックリ。大変申し訳ない。そして、この時ばかりは英語を聞き取れなかった自分グッジョブ。(いや普通に断ればいいだけの話)

そーかそーか。やはり男の人に優しくされたら何が待ってるか分からないと反省し、リューベック最後の日は1人で街散策。吸い込まれるように入った教会は真っ白でシンプル。ヨーロッパにありがちなこれでもか!な彫刻はほとんど無く、純粋無垢という言葉がふさわしい。そして意外なことに木の彫刻が多かった。絵画的ではなくモザイク柄のステンドグラスが本当に美しくて、ずっとここにいたい心地になった。いつもの私はじっとしていられない性分なのだけど、足が完治してないこともあり(とはいえジムが買ってくれたサポーターのおかげでかなり緩和されてる)教会や広場で座っているこの時間がかけがえのないものに思える。陽が落ちかかった夕刻に川の流れを見ていたら、昼間に溶けきれなかった氷がゆっくりと流れている。寒い。寒いけれど、目に焼き付けておかなくてはならないものに思えた。

私にとってリューベック最後の夜。突如ノゾミによる日本語講座なるものが始まった。皆好きなワードを挙げて、私が筆ペンで日本語に訳したものを書く。一文書くごとに「Oh!!!」と盛り上がる。気分いいねえ。旅人マーティンが"Eagle is inside mud in Europe"書いて!というので「ヨーロッパで鷲が泥の中にいる」と書くと大喜びで、拡大してポスターにすると言い出した。「ちょ!日本語として理解できないよ!?」と言ったら「どうせ誰にも分からない!」と。皆で大爆笑。漢字は適当に書くんじゃなくて、きちんと書き順があるんだよと教えたら一斉に「クレイジー!!」と叫んでた。最後にはBill's Bandのデイビッドが「ノゾミのためにギター弾こう」と言って曲の一部をバックパッカーとして旅する私のことに歌詞を変えて歌ってくれた。泣ける。何が泣けるって、歌の歌詞を全く理解できない自分に泣ける。情けない。

でもね、ひとつ言えるのは音楽は詩が分からなくても伝わってくるってこと。嬉しかった。

下は唯一ジムと撮った時のもの。しばらく前日のことで拗ねてたけど、最後はちゃんと出てきてくれた。「ほら!カメラ見なよ!」と言ってもカメラを見ない。

本当に楽しくて夢のようなリューベック最後の夜だった。そして、この夜が楽しすぎて翌日からまさに「リューベックロス」が続くのである。



アイルランド(ダブリン)・・・フランシスコとの再会

父とアイルランド西海岸の旅を終えて、そろそろ次の土地へ行くための準備を始めた。ぬるいギネスを毎日のように飲んでいたけれど、これが飲めなくなるのは寂しいなあ。ダブリンは全てが心地よかった。パブでは誰からともなく演奏を始めると、我こそはと次々と楽器を出してセッションが始まる。ギネス飲...