㉘スペイン(カピレイラ村)・・・末期癌の老人と葛藤
結局、昨夜も市村さんの話に付き合って3時(!)まで寝かせてもらえなかった。それなのに朝早く市村さんがドアをノックしてきて起こされた。なんだこの老人は。末期癌どころかロボットじゃないかと疑うほどの体力だ。
昨夜も一方的に私は否定され続けた。26歳の私は真正面に受け止めダメージを食らった。もうこんなのはコリゴリだと朝起きて直ぐに山を下りるための荷造りをした。昨夜のことがあまりにも悔しくてノートに思いを書きなぐった。
-市村さんに「なぜ無意味で愚かな放浪旅なんかするのか」と聞かれた。そんなこと市村さんに答える必要はない。「無意味で愚か」を肯定もしなければ「無意味で愚か」と言う市村さんを否定するつもりもない。なぜなら彼は「私」を知らないし、知ろうともしてくれない相手だから。「私」を知らない今は「無意味で愚か」はただの言葉に過ぎない。まあ、私を知ったとしても同じことを言うのだろう、この人は。
-仮に「私」を知った上で無意味で愚かな旅と言われたとしても、私自身はそうは思わない。だって私だけが知る「こんな幸せな時間」「何のご褒美なのだろう」と思う経験をしたことには違いないから。だから、市村さんの言葉に私は動じない。「そういう意見もありますね」と受け流すことが精一杯の私の反発だった。
ノートに書きなぐってるうちに、いろんな気持ちが見えてきた。
市村さんは私への否定だけでなく、これまでの人生で自分に対して嫌なことをした人間の事を鮮明に記憶していて、まるで一人だけその時代に戻ったかのように細かい状況を始め様々なことを話し出した。そうかと思えば、好きな映画についてオープニングからエンディングまで、役者の表情やセリフ、風景の美しさまでも細かに語り続ける。小説についても同じ。須賀敦子はバックパッカーとは違う視点で世界を見ているからこの先イタリアに行くなら必ず読めとか、オリヴィエ・フェルミの「凍れる河」では生活の違う家族の表情や命懸けで生活を守ることで学べること、白洲正子は彼女ほど日本のことを知ってる人間はいない…等など市村さんの脳内整理の時間なのかと思うほどとにかく絶え間なく喋り続けていた。きっと私に聞かせたい話というより、アウトプットしたいのだろうと感じる。
そこでふと思った。
この人は死を恐れているのではないか、と。
生きてきて感じたこと、全神経で感じ取ったことを言葉に出すことで記憶をどこかに残せると思っているのかもしれない。「死は怖くない」と何度も繰り返すこの言葉こそ、死に対しての恐怖だったのではないだろうか。鳥肌が立った。
旅なんてしてこなかった。スペインでの生活を余儀なくされた。絵を描き続けたくなかった。でもフランシスコという恩人のためにだけ描いてきた。「自分の人生は素晴らしかった」と言うのは、そう言わないと、もしかしたら不本意な中でここまで頑張ってきた自分が浮かばれないと思っているのではないだろうか。家族も持たず、孤独で、寂しくてたまらなかったなんて決して口に出してはいけないと思っているのかもしれない。
すごいエネルギーだった。
自分という人間の一生を、必死に誰かと共有しようとしていたのかもしれない。個展で世界中を飛び回っていたとはいえ、もっと違う人生を歩めたかもしれない自分の人生を悔やまないために、自分が経験できなかったことをする人間を否定するしかないのではないか。
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市村さんの絵を最初に見た時、ひとつ驚いたことがあった。
それはこんなにも毒舌な市村さんが描く絵に我の強さというかトゲのようなものを感じられなかったこと。日本画を描く母の傍で育った私は、おそらく同じ年代の子よりは絵に触れる機会が多かったと思う。絵に対しての好き嫌いは割とハッキリしているのだけど、市村さんの絵は繊細で優しくて、こんな絵が描けるなんてきっとものすごく世界が美しく儚いものに見えているのだろうなと思えた。私の目に映る市村さんの印象とはかけ離れた優しい絵だったので、当初どの市村さんが本当か分からなかった。でもきっと強くあろうとする厳しい自分と、心根を表す温かさと寂しさがにじみ出ているのだろうな。一方的に否定ばっっっかりしやがってと腹が立つ反面、切ないほどに温かく寂しい人柄が伝わってくる。
長くなったが、そんなこんな寝不足気味でモヤモヤしながらもこの日も庭仕事と家事。私が有り合わせで食事を作ると「九州女の味付けは濃い」と不満をいいつつ完食する老人。食器の片付けをしていると「冷凍庫の霜取りをしてちょうだい」と言われ、時計を見る間も与えられず次々と仕事を与えられていると、あああああ!!!!この山奥からグラナダの街に向かう1日1本のバスが行っちゃったよお!泣
「もうこっちにいなさいよ」
というのは市村さん。ウラノさんもここに残ることを当然のような顔をして見つめている。やられた…。堪忍してもう一泊することに決めた。市村さんの部屋で、汚れを溜めるに溜め込んだ冷蔵庫と、油とホコリが何層にも蓄積されたガスコンロの掃除をした。夕方になってやっと解放されると、一人テラスに出て日が落ちていくのをぼんやりと眺めていた。
私の旅はこんなはずじゃなかったのになぁ。見知らぬ街で宿探しをしていた刺激的な日々が現実なのか、スペイン山奥の美しい村で眩しいほどの夕陽を見つめる今が現実なのか、もしかしたら全ては夢なのか、もう何が何だか分からなくなっていた。
ハッキリしているのは、憎まれ口叩きながらも絵を描く市村さんの姿がとても素敵に見えるということだった。
市村さんの絵を見ていると、不思議なことに市村さんをもっと理解したいと思えてくる。
なんか、悔しいけど。
