㉙スペイン(カピレイラ村)→(グラナダ)・・・帰国する市村さんとアラブ人に預けられたわたし

 2001/03/13

昨夜は部屋に戻ってから市村さんから借りた本を一生懸命読んだ。少しでも市村さんの世界観を理解したいと思った。少しでも対等に話ができるようになりたかった。

今朝も市村さんからのドアノックで起こされる。身支度を軽く整えてから、市村さんのマネージャーであるフランシスコのバールに行って、いつものカフェコンレチェ(cafe con leche)を飲む。そして、昨日の続きで庭に出て植木を植え直し、花を植え、堆肥や肥料をスコップで指定された場所に置き直す。しかしまあこんな重労働もコツが掴めてきて、最初ほどキツくはなくなってきた。そんな時、市村さんがじっとこっちを見つめて

「私に会ってなければ、あなた今頃スペインを越える予定だったでしょ。ごめんなさいね」

と!!!えーーーーー!市村さんっ!?変なものでも食べましたか!?とんでもないことだ!私は慌てて「市村さんと会えたことで全く新しい経験をさせてもらって本当に感謝してるんです!そんなこと言わないでくださいよ」と伝えると「そう言ってくれるとありがたいです」って。もう、不意打ちでそんなこと言われると泣きそうになる。余計なこと考えないで憎まれ口叩いててくれないと調子狂っちゃうよ…。

お昼ご飯は私が温かいお蕎麦、高野豆腐の煮物、庭で育ったニラと卵でニラ玉炒めを作って、いつものように市村さんとウラノさんと3人で食べた。今日は味付けに不満を言われなかった。

それどころか

「危篤に近い老人の頼みとして聞いて。あなた今日のバスじゃなくて、私たちと一緒に山をおりなさい。ちゃんとグラナダで泊まらせてくれる友人宅まで送り届けるから」と言われた。

こんなにお世話になってるのに隙あらば今すぐにでも山をおりようと考えてることがお見通しだったのも、市村さんの方からこんなことを頼んできたことも、危篤の老人というワードも、一瞬にして言葉のロープとなって私の喉元を締め付けた。そしてなにより寂しそうなその表情が、私が自分のことしか考えてない愚かさに気付かされたように感じて恥ずかしくなった。「すみません。お言葉に甘えます」そう伝えると、笑って「次はね、6月下旬、1番花が美しい季節に来なさいよ」と言ってくれた。

ああ、何年後の6月になるだろう。その時まで市村さんはこの部屋で絵を描きながら待っていてくれるんだろうか。

午後は3ヶ月不在にする市村さんの部屋の掃除。部屋の中の植物をフランシスコの部屋に移し、賞味期限の短い食品の整理とか、おつかいなどなど。夕方にはウラノさんとバールで軽食食べながらスペイン語を教わったり、色んな話をした。市村さんに対する私の不満も全部受け止めてくれて「頑固で素直じゃないけど優しいおじいちゃんなんだよね」って。認めたくないけど、病気はかなり深刻だということも教えてくれた。ウラノさんは本当に心優しく、余計なことは言わず、市村さんを尊敬しているのが伝わってくる。大使館勤務時代は相当な苦労があったらしく、ストレスを感じた時なのか何かを思い出す時なのか、時々頭の一ヶ所をしきりに掻きむしっている様子が伺えた。私たちは必要以上にプライベートなことは話さず、ただ今の時間を共に過ごしていられることが何より大事でかけがえのないものに感じられた。グラナダ駅で偶然話しかけたのがウラノさんだったなんて、縁と言っては簡単すぎるし、運命と言うには大袈裟すぎる。でも、出会えたことは奇跡に近くて、この偶然というものに心から感謝するしかなかった。

(ウラノさんが教えてくれたスペイン語)

・・・

市村さんが日本へ帰る日。

私とウラノさんがいつものように市村さんにドアノックで起こされたときにはすでに市村さん作の雑煮ができあがっていた。私は朝から餅を二個入れた雑煮を遠慮なく平らげ、フランシスコのバールでカフェコンレチェを飲み、市村さんの描いたたくさんの花の絵をしばらく鑑賞し、そしてバールの屋上に上がって私が働いた庭や、白い街や、遠くの山脈を眺めた。

運転手パコさんの車で市村さんとウラノさんと共にグラナダに向かった。これから市村さんの友人だというルトフィさんに私を預けた後、二人は車でマドリッドへ行き、体調を考慮して一泊した後に飛行機に乗って日本に帰るらしい。寂しい気持ちとこれからのことの不安で笑うことも泣くこともできなかった。

ルトフィさんはグラナダの中心近いところでピタパンサンドのお店を経営しているらしく、彼の店に着くと車から降りて軽く挨拶を交わすと、店の前の道路が一方通行ということもあり、後続の車に急かされながら慌ただしく市村さんを乗せた車は私の前から去ってしまった。あっけなーーーーい(涙) どうかどうか、もう一度市村さんに会ってお礼が言えますように!一日でも長く市村さんが生きてくれますように!そう願うことしかできなかった。
不安で押しつぶされそうになりながら、目の前のアラブ人のヒゲのおじさんルトフィの指示を待つ。ルトフィは二人になったとたん店の電話を取って、電話の相手に向かって激しい口調で怒鳴り始めたので腰が抜けそうになった。信じるんだ。市村さんを信じるんだ。この人が悪い人でないことを信じるしかないんだ。どうやら電話の相手は奥さんのサイダさんらしい。電話を代わるよう言われ、電話口で挨拶。それから二人で歩いてサイダさんの待つ家へと向かった。

どうやら激しい口調は怒っていたわけではなく、そういう話し方だったようで、ルトフィが親切に英語でいろいろと説明をしてくれた。ここはグラナダの中でもアルバイシンと呼ばれる世界遺産にも認定されているアラブ人が多く住んでいる旧市街地だとか。すぐ近くにはかの有名なアルハンブラ宮殿があり、観光客も多いが路地に入ると危険なところもあるので気を付けるよう注意された。まさかこの旅の途中で世界遺産の中で生活をさせてもらえるなんて夢にも思わなかった。家に着くとまず靴を脱ぎ、ソファやベッドがあるわけでもなく床に座ってくつろぐという日本の昔ながらの生活様式に似ていた。そして私のために用意してくれた部屋に案内されたとき現れたのが、イスラム教徒のサリーを身にまとったサイダだった。


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