2025年8月6日水曜日

スペイン(サンセバスチャン)→スペイン(セゴビア)・・・テレフォンカードとカメイくん

 2001/02/26

美しいサンセバスチャンに数日滞在し、今度はスペイン内陸部のセゴビアという街に行ってみることに。そこは古代ローマ時代からの水道橋や旧市街が世界遺産に登録されているだけでなく、ディズニーの白雪姫のお城のモデルとなったアルカサルなど歴史と文化を感じられる街だという。春の始まりのような優しく暖かなサンセバスチャンでしっかり身も心も癒され、夜行列車に乗ってまずはマドリッドへ。22:37発の夜行列車に乗り込むとコンパートメントになってて一部屋6人分のベッドがあった。私は3段ベッドの真ん中。元々どこでも寝れるけれど、やっぱりベッド最高。疲れをとるためにはクシェットではなく寝台にすべきね。

7:50マドリッド到着。マドリッドの治安が悪いという噂はあちこちで聞いていたのでさっさと乗り換えたい私。インフォメーションに行ってしつこくセゴビア?セゴビア?聞いていると、15分後に出発するとか。順調すぎて不安を抱えながらも迷っている暇なく乗り込む。乗客にもしつこくセゴビア?セゴビア?尋ねるとどうやら間違いないらしい。
それにしても「荒涼とした」とはまさにこういう風景のことを言うのだろうな。乾いて痩せた大地がどこまでも続いている
セゴビア到着。しかし駅前にあまりにも何もない。世界遺産を案内する標識も何もない。もしや、スペインにはセゴビアって町がいくつも存在するんだろうか?マドリッドでの乗り換えがスムーズ過ぎて、こんなにうまくいくはずないと思ったのよね。当然英語表記も無し。駅に地図も無し。駅員に尋ねてみるも言葉通じず。
同じように迷っていた英語圏の夫婦が「僕らも観光しに来たけどどこに行ったらいいんだろうね」と言って、観光案内所を探そうと言って一緒に歩いてくれることになった。重い荷物を持ったまま30分以上三人でさ迷い歩き、心が折れかけたその時、角を曲がった私たちの目の前に突然、ローマ時代の水道橋が現れた!!!これには3人ともビックリ仰天。喜びあって私たちはそこで分かれた。迫力すごい!!すごすぎるよ!!!(ちなみに駅からは皆さんバスで旧市街まで向かっていたらしい。無知すぎた)


思っていた以上に大きい!長い!これを古代ローマ人がセメントも使わず石を積み上げただけというのが本当にすごい。石の重さで固定されているというが、地震が少ないからこのように残っているのだろうなあと思う。
セゴビア大聖堂はスペイン最後のゴシック建築で、オレンジ色の外壁と気品ある佇まいから「大聖堂の貴婦人」と呼ばれているらしい。中の彫刻や絵画が本当に素晴らしく、特に彫刻に色が付けられているのが非常に珍しいと思った。天井も高く、ただただ技術力の高さに驚くばかり。落胆からの高揚でセゴビアのなにもかもが特別素晴らしいものに見える。
さてそこから宿探しのため街歩き。インフォメーションで一覧をもらえたので手あたり次第当たってみる。

いくつか断られたものの、やってきたこちらの宿は個室で1040円程度。むむ!初の個室ってのもアリかもしれないな。人との出会いと別れが辛かったり、変に気を使いあったりすることからここでは解放されてみるのもいいかもしれない。即決。お金を支払いパスポートを提出して契約完了!

宿のおじちゃん。通じないのにお構いなしでスペイン語で話しかけてくる。よくわからないという顔をすると、ゆっくり丁寧にスペイン語で言い直してくれる。何回ゆっくり言われても通じませんから!こういうの気にしないのもお国柄なのかもしれない。
とにかくやたら私に対して「ボニータ(女の子)」を連発してた。ノックされてドアを開けたらどうやら「女の子なんだからすぐ開けないの!」と言ってるらしい。ボニータとして街歩きをする心構えみたいのを何回も言われた(通じてないけど)。
食事はいつもこんな感じ。やっぱりパンはフランスの方が美味しかったなあ。出発前に友人がくれたアーミーナイフは何かと大活躍。ワインはもちろんスペイン産。一日でボトル空けちゃうけど、日本に比べて安いのでお構いなし。

そして白雪姫のモデルとなったアルカサルへ。昼間からワイン飲んで気分よく、すれ違う人同士「Hola!」と声掛けあうのもすぐに慣れて、このゆるっとした雰囲気がとても心地よく感じられた。
白雪姫は私の中でもディズニー作品の中でもっとも印象に残っている作品だったのだけど、もう「まさに!!!」というくらい想像通り、いや想像以上だった。荒野の中の丘に静かに佇む感じは威厳のようなものを感じる。下を流れる川に沿って歩いて、しばらくこの美しい白をいろんな角度から楽しんだ。

余裕が出たところで、日本に電話をしようとテレフォンカードを購入(ヨーロッパでは各国で販売されていた)。



①カードの会社番号をプッシュ ②アナウンスを1,スペイン語、2,英語、3,フランス語、4,ドイツ語から選択 ③購入したカードの銀色の部分をコインで削って、出てきた12桁の数字をプッシュ すると自動音声でいくら分残っているのか教えてくれるので、そのあと日本の電話番号をプッシュして国際電話を掛けることが出来る。
のだが、
日本円にして1200円相当のカードを購入したのに、残高不足で掛けれませんというアナウンスが。そんなわけあるかーーー!!!売店のおばちゃんに拙い英語で説明しても当然理解されず、こうなりゃツーリストインフォメーションしかないと鼻息荒くして向かう。途中で日本人らしき青年を見つけたので、孤軍奮闘するよりは一人でも仲間がいた方がいいと、強引に彼もツーリストインフォメーションに連れていき(今考えたらあまりの厚かましさにびっくりする)二人で10分ほど必死で英語で説明すると、電話会社に掛け合ってくれて原因不明の事態にも関わらずなんと長時間話せるように設定し直してくれた。逆にこんなことでいいんですかっ。笑
いやいやしかし、こんなどうすりゃいいのか分からないトラブルも、必死になれば通じるものだといい経験になった。そして、出会って数分で私に協力してくれた大阪のユニクロ店員カメイ君とも仲良くなって、二人で日本での仕事の話をしながらアルカサルを散歩することに。

彼は4日前日本を発って、二か月間ヨーロッパを放浪するらしい。ワーキングホリデーでカナダに一年間行っていたこともあり語学は堪能(スペインでは英語は無意味だが)。ワーホリ帰国後関空の面接に受かったらしいけど、海外を鉄道で旅したい気持ちが強く、内定を蹴って自由な職場であるユニクロのバイトを選んだとか。2001年当時のユニクロはフリースが出始めた頃で、今回の旅でもかなりお世話になった。しかし今のように国際的な企業になるとは思ってなくて、カメイ君が「ユニクロって海外に視野を広げててすごい企業なんだよ」という言葉も今なら納得できる。バイトとはいえ店長補佐まで任されて、今回の旅から戻ったら同じポジションに就けることが約束されているとか。「海外支店の店長をやってみたい」と言っていた彼の夢はどうなったんだろうなあ。あの時聞いた年齢からすると今は53~54歳ってとこか。もしかしたら役員にでもなっているのかもね。

この日カメイくんと話したことで、私の中で「やりたいことをやる」が自信を持っていいことだと教えてもらえた気がする。

ほんの数時間だったけれど、テレフォンカードのおかげで知り合えた彼とのセゴビア散歩は一生忘れられない思い出となった。

2025年8月1日金曜日

フランス(シャルトル)→スペイン(サンセバスチャン)・・・美しい風景に心奪われる

 2001/02/22

パリ散歩翌日、私の中でパリはもう十分という気がして、明日パリを発つことにした。駅に向かい明日の列車の予約をする。宿代を浮かすために夜行列車、しかもクシェット(簡易寝台)に。予約料金が日本円にして1,700円程度。宿代とあまり変わらないな。

この日はパリ郊外にあるシャルトルまで日帰りで行ってみることにした。懲りずにキヨノリ君も付いてくるという。沈黙でも苦ではない、まるで姉弟のような感じの関係性が非常に心地よかった。

来てみたかったシャルトル大聖堂!


大聖堂の中は写真は控えたが、この中にあるステンドグラスが見たかったのだ!シャルトルブルーと呼ばれる青が美しいステンドグラス。言葉にできない感動をボールペンで記録したけど、やっぱりうまく伝わらない笑
でも、書かずにはいられなかった。ただ見ているだけなのも惜しくて。しばらく大聖堂の中で感動に包まれていた。

街歩きも楽しかった。絵本にでも出てきそうな可愛らしい石畳の街並み。散歩中いきなりキヨノリくんがマカロンのセットをプレゼントしてくれた!!当時の日本ではまだまだマカロンというものが珍しく、雑誌で読んだことのあるマカロンが並ぶショーケースに昨日私が釘付けになっていたのをしっかり横目で見ていたらしい。ピスタチオにカシス、ココナッツにオレンジ、チョコ…。宝箱のようだった。キヨノリ君いわく「街歩きのお礼」だって。いやぁもう、こんなサプライズ、感動しちゃったよ。ありがとう。

宿に戻ると日本人たちと最後の夜、いろいろと語り合った。そこで改めてキヨノリくんが「ノゾミさんは兄貴分(ん?)みたいで頼もしかった。いろんなことを教えてもらった」と言い「最初にノゾミさんに話しかけた俺は本当に見る目があった」と自分を褒めてた(笑)。スペインに向かう夜行列車に乗るため宿を出た私を見送りに来てくれて、ずっとずっと手を振ってくれていた。ありがとう。キヨノリくんのおかげで曇り空のパリが寂しくなかったよ。

さて、久しぶりの夜行列車。これまでとはちょっと違う人種も多く若干緊張する。

簡易寝台って何だ?と思っていたらただのイス。キョロキョロしてたら、後ろの席の人が「カモン」とばかりにジェスチャー。レバーを引くとリクライニングがほぼベッド状に後ろに倒れた。「もっと下げていいよ」的な合図に安心するも、やはり長時間はお尻が痛くなってくる。しかし不安なのはお尻の痛さよりも車内アナウンス。完全にスペイン語。き…聞き取れない。焦る!降りる駅が終点で本当に良かった。乗り換えをしてようやくたどり着いたのはスペイン北部バスク地方にあるサンセバスチャン。いったいなぜこの地を選んだのか覚えていないが、おそらく旅人からの情報だった気がする。ローカル線を乗り継いでようやく到着。インフォメーションでカタコト英語で宿を尋ねると「またか!」とばかりにやれやれと首を振って何か喋りだした。どうやら「英語は通じないってば!」というようなことを言ってるらしい。駅のインフォメーションの人がこのレベル!?って、日本人も同じか。。
なんとか宿情報を仕入れるも、一件目は休み(ってそんなことある?)、もう一件は地図に載ってるのに実際には存在せず、もう一件は昼近くだというのにオーナーはまだ寝てて起こされたのが不満だったのか「空いてない」と断られる。他の宿をあたったもののどこも満室。
よく聞くと今日はカーニバルが開催されるらしい。どうりで仮装した人が多いと思った!



結局バスに乗ってユースホステルへ向かうことに。しかし、宿のことを考えすぎて小銭両替をしてなかった。両替したい旨を伝えると「車内では両替できない。今すぐ降りろ」と言われる。うっそでしょ!?すると乗客の一人のお爺さんがお金を渡してくれた。いいからいいから、とジェスチャー。周りの乗客たちも旅人の身なりをしている私に「ユースホステルならここで降りるの」「あの建物よ」と一斉に教えてくれる。優しさに涙ぐみながら下車。皆さんありがとう、グラシアス!

ベッドを確保するととたんに精神的に余裕ができる。ああ、私こんな美しい場所に来ていたのね。しばらく高台から海岸を眺めて「私は一体なんのご褒美でこんな素晴らしい場所に来ているのだろう」と考えていた。25年近くたった今でもサンセバスチャンで感じた思いを鮮明に思い出す。それほど見たことのない美しい光景だった。
町はカーニバルで賑わっていた。エリザベス女王とチャールズ皇太子(当時)らしき人物も。
美食の町として有名らしいが当然レストランやバルに入るような経済的余裕はないので、スーパーに行って現地の人が買うような食材を買ってホステルで調理。今夜はオリーブとサーディンとチーズとレタスを挟んだサンドイッチ。ワインは1リットル紙パックに入って100円程度。パンはフランスほどのおいしさではなかったけれど、この庶民の味ってのがホント最高。
サンセバスチャンでも1日30,000歩越えの街歩き。みんなの賑やかで楽しそうな表情を眺めて歩くだけでもとっても楽しかった。でもやっぱり隣に誰かいないのは何か物足りなさを感じる。思いのほか雨が多くて涼しいとか、遠くに見える山脈は白く雪をかぶっているとか、足元には小さな花が咲いていて春を感じるとか、他愛もないことをノートに書き留めていたのはきっと、寂しかったからだと思う。

2025年7月23日水曜日

フランス(カレー)→フランス(パリ)・・・野球部顔負けのパリ散歩

 2001/02/20

ユースホステルの朝食はバケット、コーンフレーク、紅茶、コーヒー、オレンジジュース。茶色い粒々したものは、シリアルの一種かと思ったらチョコレートドリンクの素だったらしい。アジア人に馴染みないものに出会うとちょっと嬉しくなる。

カレー駅で久しぶりにユーレイルパスを見せると「ノープロブレム」と改札を通らせてくれた。切符を買うのに手間取っている旅人を横目に、颯爽と改札を抜ける。これが非常に気持ちがよく、水戸黄門が印籠を出した時の気分はこんな感じなんじゃないかとどうでもいいことを想像してみる。パスを使って1等車両にも乗れたけど、身分不相応な気がしてしまうのであえて2等車両に乗り込む。車体も、列車のドアの色も、客席も、フランスというだけで全てがオシャレに見える。いざ、パリまでの三時間、フランス鉄道の旅始まりだ!


ところで、フランスに着いて念願叶って世界最高硬度の水「コントレックス」を購入。2001年当時の日本では店頭で見かけることはなく、本で読んだだけの知識だったため、本場で売られているのをみてひどく感動した。また、ボルヴィックやエビアンという日本で見たことのある水もイチゴやレモン、ブドウなどのフルーツフレーバーの種類が豊富でびっくり。いやいやいいね。こういうの非常にいいね!

気分よくパリ北駅に到着。ブルージュの宿で会ったマリアからパリの安宿情報をもらっていたので、早速宿に向かうとまさかの満室。え!オフシーズンなのにこんなことあるの??

仕方なくロンドンの宿で聞いたバスティーユ広場近くの宿に行くと、住所の書き間違いか?全くたどり着けない。パリのオーステルリッツ駅に行くと、ツーリストインフォはパリリヨン駅だと言われ、もうすでにパリという街の大きさを感じてうんざりし始めた。

かくかくしかじか(宿探しが大変すぎて説明するのもしんどい笑)ようやくリヨン駅近くの安宿に辿り着いた。荷解きを済ませ、身軽になって改めて街に出るとさすがパリ!見えるもの全てがスキ無く圧倒的輝きを放っているように見える。威圧感すご!

小腹が空いたのでパン屋で一番安いバケット(57円程度)と、スーパーでパテと洋ナシを購入して公園で食べると、え!と思わず声が出るほどパンが美味しい。ユースホステルの朝食のパンもだったけど、やっぱりビックリするくらいパンが美味しい。

曇り空でもエッフェル塔は美しい。



宿に戻るとたくさんの日本人が宿泊しているようだった。話を聞くと、ほとんどが大学生で卒業旅行で来ているらしい。なるほど!だから満室の宿もあったわけだ。初めての海外旅行という子も少なくなく、ガイドブックに赤丸付けて片っ端から観光地巡りを計画している子がほとんどだった。中には「ミシュランの星付いてる店を回る」という男の子もいて「そんなにグルメなの?めっちゃお金かかるね」と言ったら「いや、食事はしないっす!有名店の前で写真を撮るのが目的っす」という子も…。ああ、同じ日本人としてそれは恥ずかしい…なんてことは言えずに話を聞いていた。

翌日は徹底的にパリを歩き回るつもりで、宿で地図を頭に叩き込んだ。宿を出ると、大学生のキヨノリ君が、バスティーユ広場に行きたいというので道案内をしてあげた。すると、私のパリ散歩に同行したいという。いや、私めっちゃ歩くよ?と言うも「野球部なんで全然平気」とのこと。まあ、困ったら撒けばいいか(ひどい笑)…と思いながら歩き始めた。

パリリヨン駅からざっとバスティーユ広場、ルーブル美術館(見学は以前したことがあったので、今回は通るだけ)、コンコルド広場、シャンゼリゼ通り、凱旋門、エッフェル塔、サンジェルマンデプレ教会。私の目的はとにかく街歩きをすること。観光地はそのポイントに過ぎない。

この地図だけ見ると近そうに思うかもしれないが、なんとこの日は33,000歩歩いた。

キヨノリくんは中央大学で経済を学んでいるとかで、パリにいる間にシトロエンやプジョーなどを訪れて車の流通や販売促進など経済に関することを学べたらと思っているらしく、私なんかよりしっかりとした目的をもってこの地にやってきたことを素直に尊敬した。
そして、気が付けば本当に楽しい観光になってた。
凱旋門ってナポレオンが死んだ後にできたから、ナポレオンは遺体になってからここを通ったらしいとか、エッフェル塔はこの渋い色合いがパリの街に馴染んでていいよねとか、サンジェルマンデプレ教会はフランス最古なだけあって、古くて品があり、彫刻より壁画が多かったのが印象的だよねとか、こういうことを話せる相手がいるってほんっと素晴らしい。
とはいえ、キヨノリくん後半はかなりバテ気味で、宿に戻ってからみんなと談笑しているときに「女の子に負けてたまるかと、必死になって付いて行った」とこぼし「でも、歩いてよかった。歩いたからこそ理想の一日になった」と言ってくれた。ああ、よかった!!!
このキヨノリくんとは、帰国後一回だけ東京で会って、蕎麦を一緒に食べた記憶がある。十数年後にはSNSでも繋がることが出来、彼は現在起業して社長として活躍している様子。

食事は昼も夜も買ってきたバケットにパテ塗って、チーズやトマトなどをサンドして食べた。しかしもう何もかもが美味しくて、ちょっとびっくり。目に見えるもの、口にするもの、なにもかもが完璧すぎて、パリって私にはちょっとだけ居心地が悪い場所のような気がしてきた。

2025年7月19日土曜日

アイルランド→イギリス(ロンドン)→フランス(カレー)・・・一人旅再開

 2001/02/12

父の元を離れる直前から突然体調が悪くなった。とにかく胃が痛い。何を食べても気分が悪く、胃の痛みが治まらず、薬局で拙い英語で症状を訴えて胃薬を買うがイマイチ効果なし。

ずばりストレスでしかないと思う。特に宿探しを想像すると吐き気までしてくる。また駅や観光案内所で安宿のチラシを探して歩きまわるのか…。この10数年後には携帯電話で宿探しできるなんて当時は想像もできなかった。

最後に父のPCでEメールをチェックし、親しい友人たちには「またしばらく連絡できなくなる」と書いて送信。そして、父には感謝の気持ちを綴った手紙と、少し早めのバレンタインデーのチョコを渡した。父も寂しくなるだろうな。そしてバス乗り場で父が「ヨーロッパならしょっちゅう出張が入るからまたどこかの都市で会おう」と言ってくれた。その言葉に希望を抱きバスに乗り込む。体調を心配して見えなくなるまで手を振ってくれた父。本当にどうもありがとう。1年間海外生活なんて、今更ながら本当に尊敬するよ。


翌朝、ロンドンのビクトリアコーチステーション(バス乗り場)に到着。ロンドンは大学時代の短期留学含め過去に3回来たことがあったので、一旦一人旅の感覚を取り戻すリハビリ的な時間として効果的だった。ビクトリア駅近くの安宿は、壊れそうなパイプベッドと常に人が階段に座ってお喋りして騒がしい宿で気持ち安らぐことはなかったけれど、それでもかつて人生初のカルチャーショックを受けたロンドンという街にいられることが嬉しかった。

ロンドンからはコーチ(バス)で港町ドーバーへ。数週間前にベルギーからこのドーバーに渡ってきたときはいろんなことにテンパり過ぎててホント大変だったな…。これから私は大型フェリーに乗っていざフランスへ。しかしどこをどうやってフェリーに乗るのかも分からず、とりあえず人に聞きまくってなんとかチェックイン完了。またも胃痛がしてくる。大丈夫か、私。

(ドーバーの白い崖)

フェリーの中では朝ロンドンで買ったリンゴとチョコレート、安いパンをかじってドーバー海峡を渡る。頭の中はフランス側の港町カレー(Carais)から無事にパリ行きの列車に乗れるのかどうか不安でいっぱいだった。

フランスに到着すると全員フェリーからすぐにバスに乗せられ、入国審査とかあると思ったのに降ろされたのは駅だった。駅までどうやって移動しようか悩んでいたので、意外なくらいあっさりと問題解決。ホッとしてパリ行きの列車が来るまでの時間いろいろと整理しようとベンチに座ってしばらくして、いろいろ「何か」がおかしいことに気が付く。

あ・・・時差

パリ行きの列車は一時間前に出発していた。あーーーーー、みんな時計触ってたのは時間を修正していたのね。そういうことか。やられた。残念ながらこの日のパリ行きは断念するしかなく、しぶしぶツーリストインフォメーションへ。

刺激はないが安パイなユースホステルに泊まることにした。

非常にキレイで清潔なホステル。まあユースホステルは、通常私が泊まっている安宿よりは若干価格が高めなのでキレイであることは当然だと決めている。とはいえ約1,400円程度。今にして思えば本当に安いな。

しかしこちらの化粧室。トイレと同じ空間にシャワー室があり、突き当りにはもう一枚ドアがあって鍵がかかっていた。しばらくそのドアの意味が分からなかったのだが、なんと隣室と繋がっているではないか!!!
トイレ&シャワー室からは鍵が掛けられない作りになってて、運悪く隣人と同じタイミングでトイレorシャワーを使うことになったら、と思うとゆっくりする気にもならなかった。シャワー室にはビニールカーテンが一枚ぶら下がっているだけ。夜中に突然、顔の見えない隣人の用を足す音が聞こえてきた時はゾッとした。まだ共同トイレの方がいいや。きれいで一見安全なのに、これは本当に恐怖だった。

2025年7月10日木曜日

アイルランド(ダブリン)・・・フランシスコとの再会

父とアイルランド西海岸の旅を終えて、そろそろ次の土地へ行くための準備を始めた。ぬるいギネスを毎日のように飲んでいたけれど、これが飲めなくなるのは寂しいなあ。ダブリンは全てが心地よかった。パブでは誰からともなく演奏を始めると、我こそはと次々と楽器を出してセッションが始まる。ギネス飲んでいたおじいちゃんとおばあちゃんが体を動かし始めて、ついには立ち上がって踊り出す。皆が手拍子したり、おしゃべりを続けたり。


昼間のパブはいわゆるカフェ的な存在で、ランチあとのビジネスマンがやってきてギネスを飲みながら議論を交わしてそのままオフィスへ戻っていく。そのため私もすっかり昼間からぬるいギネスを飲むのが習慣になってしまい、これがなくなるなんてどうしたらいいのかと真剣に悩んだ。

ダブリン城やトリニティカレッジなど馴染みとなった街を歩き回った。公園では水鳥が魚を食べてる姿や、ベンチで新聞を読む青年、腕を組んで歩く老夫婦を眺めながら「ここを発つ日を決めておいてよかった」と思った。そうでなければ私は残りの日々をここで過ごしたいと思っていたかもしれない。

父の住むアパートメント。中庭があった。

室内でハンティング帽を被ってすっかりアイルランド紳士気取りの父。

父のアパートにいて何が良かったって、食事や宿の心配がなかったことはもちろん、日本語が使えるPCがあるということ!家族や友人と思う存分やり取りできたのは本当に大きかった。そして日本語のメールの中にいくつか旅先で知り合った友人から英語のメールも来ていて旅の情報を送ってくれていた。なんと有難い!さらにキラーニーで知り合った真面目そうなあのメガネ青年フランシスコからもメールが。
ダブリンの大学に留学中のスペイン人フランシスコが「ノゾミがダブリンを去る前にもう一度会いたい」とのこと。
中央郵便局前で待ち合わせることにして、近所のレストランでエビフライとサラダとスープとフライドポテトを食べ、フランシスコおすすめのホットウイスキーを飲んでみる。お…おいしい!!さらにレモンとクローブを加えたものもまたおいしい!!
キラーニーで山道遭難しかけた話をするとビックリされて、やはりあの距離感を分かってなかった私がアホだったのだろうなと思ったが、彼はとても素晴らしい経験だったと褒めてくれて、次は彼の住むバルセロナで再会しようと約束をした。日本人的には一見ひ弱そうに見える彼だったが、全てにおいて紳士的な態度(ジェンダーギャップに厳しくなった2025年現在としてはいいのか悪いのか分かりませんが)で、私を立ててくれる。これこそが「れでぃふぁーすと」ってやつか!と感心しながら父のアパート前に到着。
「いいね?バルセロナに来る日が決まったら必ず連絡するんだよ」
と言って、突然唇を奪われた。

...!!!
父のアパート前ですが!
真面目で気弱に見えましたが!
いや、これはハイタッチくらいの挨拶なのですか!?

脳内処理が間に合わないうちにフランシスコは帰っていき、私はただ呆然と彼の後ろ姿を見送った。

2025年7月4日金曜日

アイルランド(アラン諸島)・・・最果ての地へ

昨日の荒天が嘘のように快晴。よかった!アラン諸島に渡るためにはフェリーに乗らなくちゃだけど、昨日みたいな天気だったらどうしようかと思ってた。アラン諸島はイニシュモア島、イニシュマーン島、イニシィア島の三島があり、私たちは一番大きなイニシュモア島に行くことに。

ロッサヴェール港よりフェリーで約40分。おおっと、なかなかな老朽っぷりだけど大丈夫か??泳ぐアザラシと並んでフェリーが動き出した。


可愛らしい建物が見えてきた!し…しかし、あまりの寒さに指がちぎれるかと思った。父も同じだったようで、島に着くなり「記念に」とお揃いの革の手袋を買ってくれた。今となっては、この旅のことをちゃんと振り返ってこなかったことをとても後悔している。父が2018年から2019年にかけて約1年闘病生活を送っている間に、たくさん会話できたのに、私は1度もこの旅のことを父と話さなかった。当時の生活そして子供たちのことで手一杯で、旅のことはすっかり忘れていたのだ。もう一度、二人であの時間のことを振り返ってみたかったな。

ケルト文化が色濃く残っており、こちらの十字架はケルト十字と言われる真ん中に円があるもの。あちこちで見かけた。
島の中を移動するためレンタサイクルを借りていざ出発。父のぎこちない自転車の漕ぎ方が微笑ましい。観光地とは思えない静かな島で、人影は見当たらず、迷惑そうにこちらを見る牛に遠慮しながら進んでいく。



なんだか巨大迷路にでも迷い込んでしまったかのよう。

突如現れたドンエンガスの断崖絶壁。柵も何もなく、風が吹けば崖下に吸い込まれてしまいそうになる。高所恐怖症の父と高所大好きな私。


そしてさらに断崖には約3000年前に建てられたという古代要塞が。いったい誰が何のために作ったのか謎が多いらしい。しかしこの場所には謎という言葉がぴったりだ。

それにしても昨日のモハーの断崖以上の迫力に圧倒された。容赦なく冷たい風がごうごうと吹き付けてきて、荒涼とした土地もこの力強い自然によって形成されたものだと納得する。この凄まじい自然のパワーを、隣にいる父と共感しあえることの喜びよ。牛がいるだけで笑いあえる。もうすぐアイルランドを発ち、また一人旅に出ることが寂しくてたまらなくなってきていた。



2025年6月27日金曜日

アイルランド(モハーの断崖)・・・初めての父娘二人旅

 2001/02/05

休みを取ってくれた父と二人で、アイルランド西部にあるモハーの断崖、そしてアラン島にむけてレンタカーで旅行することに。

用意してもらったのはTOYOTA車!左側通行の右ハンドルなので日本と同じなので運転しやすい。しかしどういうわけかウインカーとワイパーは逆。


コンクリートで固めたわけでもなさそうな石垣がいつまでも続く。日本だったら台風が来て一発で壊れそうなものだけどな。荒涼とした風景は私にとっては夢の中のような非現実のものに思えた。

ダブリンから250km。行き当たりばったりの父娘旅行はまず宿探しから。オフシーズンということもあり営業していないところが多く、なかなか見つからない。18時、やっと西海岸の港近くのB&B(Bed&Breakfast)発見。

きれいだし可愛らしいし、貧乏一人旅ではとても泊まれるグレードではない!嬉しい!ひとまずここで一泊。そして、翌朝の朝食はソーセージにベーコン、目玉焼きとパン、そして必ず付いてくるコーンフレーク。しっかり体力付けていざモハーの断崖へ。ところが朝から悪天候。雲の流れが速く、雨が降ったりやんだり。石畳の岸に波が打ち付けては砕け、さらに強風に波が吹き飛ばされて弾ける。

そしてついにやってきましたモハーの断崖(Criffs of Moher)。高さ約200mの崖がなんと8キロにわたって続いていて、のちにハリーポッターの映画の舞台にもなった場所。
とにかく風が強くて飛ばされるんじゃないかと本気で思ったほど。もちろん晴天だったらまた美しかったのだろうけど、なんというかこのド迫力の断崖絶壁にはぴったりな悪天候だったような気もする。荒々しさ、雄大さ、激しさ。なーーーんか、自分の存在や旅する三か月間とかこれからについてとか、めっちゃ小さいこと、大したことないものに思えてきた。あまりに凄すぎて呼吸の仕方を忘れそうになるほどだった。

興奮冷めやらぬ状態で再び父と宿探し。見つけたB&Bはモハーの断崖とは真逆の可愛らしい感じの宿だった。空き部屋あるとのことで部屋に案内されると、すぐにオーナーの女性が温かい紅茶を入れてくれた。

そしてスーパーで買ってきた赤ワインで父と乾杯。二人で寝るまでひたすら飲んで酔って語った。こんなに父と話すことがあったことに驚き。父の周囲の人間からは「よく女の子を一人旅させることに賛成したね!」と驚かれるらしい。思わず「ホント、よく賛成してくれたね」と言うと「いやいや、ノゾミはダメって言っても聞かないやろ。するって決めたら絶対するもんね」って。あ、そゆことですか。笑
この性格、25年近くたった今でも変わらないな。

若かりし頃の父



スペイン(サンセバスチャン)→スペイン(セゴビア)・・・テレフォンカードとカメイくん

 2001/02/26 美しいサンセバスチャンに数日滞在し、今度はスペイン内陸部のセゴビアという街に行ってみることに。そこは古代ローマ時代からの水道橋や旧市街が世界遺産に登録されているだけでなく、ディズニーの白雪姫のお城のモデルとなったアルカサルなど歴史と文化を感じられる街だとい...